京論壇2019ブログ

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【東京セッション報告記②】競争と人生分科会に参加して 〜福山和甫〜

 

かみ合わない議論。発散し続ける議論。収束していくかと思えば、小さな穴からまた発散していく。なぜそんな些細な点を気にするのだろう。なぜこんなにも重要なことが気にならないんだろう。お互いに理解できないまま平行線をたどる。

 

カタコトの英語。ぐちゃぐちゃな文法。違和感を覚えても英語じゃ伝わらない。いや、日本語で流暢に話したところで伝わらないだろう。自分の思いを言葉にした途端に陳腐なものに感じてしまう。相手の言葉もひどく単純なものに聞こえてしまう。本当はもっと深い思いがあるのだろう。でも僕には言葉しか知ることはできない。

 

 

僕は議論があまり好きではない。というより、人と向き合うことが苦手である。それは、究極的には相手を理解できない孤独と気味の悪さのようなものを感じてしまうからだと思う。アルベール・カミュという哲学者のエッセイに次のような文章がある。

 

一人の男がガラスの仕切板の向こうで電話をかけている。その声は聞こえず、意味のない身振りだけが見える。そうするとなぜこの男は生きているのかという疑問が湧いてくる。

 

僕らは相手が何を考え感じているのかを、相手の言葉や行動を通して察することしかできない。ガラスの向こう側にあるものを聞くことはできない。僕はこのことを意識した途端に相手のことが分からなくなる。分かったつもりでいられなくなる。この人は何のために生きているのだろう。どんな人生を生きてきて、今どんな世界で生きているのだろう。それが僕と違うことだけが分かる。

 

議論では特にこう感じてしまう。相手は必死に意見を伝えてきてくれる。でも完全には理解できない。理解できたと思っていても実は違ったなんてこともある。そして何よりも、真っ向から意見が対立したときに本当に譲り合えないときがある。相手の立場を考えてもなお理解できないときがある。議論ではそこで逃げることが許されないから、相手との違いを直視しなければならなくなる。相手と違う孤独感と、理解し合えない他者への気味の悪さから逃げられない。

 

でも、たまに、僕は相手の中に美しさを見ることがある。繰り返される言葉や行動を通して、その人の世界の一端を感じることがある。その人が何を大事にしているのか、そこにどれだけの想いをかけているのか、伝わってくる気がする。それが、その人の価値観なのかもしれない。そこには発せられる言葉の陳腐さとは比べ物にならない、重さがある。僕はそこにその人の美しさを感じてしまう。

 

 

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僕らの分科会は“競争と人生”だ。価値観をぶつけあうための分科会だった。出てきた議論はかけた時間の割には単純だったかもしれない。ただ、長い時間をかけた議論だったからこそ、一人一人の意見、言葉選び、仕草、色々なものから、その人の苦悩や美意識が見えるときがあった。その人の生きてきた競争が、別に競争だけじゃなくその人の生きてきた人生が、その人の価値観をどのように形成したのか伝わってきた気がする時があった。そしてその伝わってきた価値観に僕はその人の美しさを見ることができた。

 

前期教養学部(経済学部)2年

福山 和甫

 

 

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【東京セッション報告記①】感じたこと、考えたこと、自分の成長 〜五ノ井杏〜

本当にわからなくて質問を重ねる。どうして?なぜ?

時には自分でもわからない。なんでそう思ったのだろう、思っているのだろう、

声のトーンが大きくなる

 

 

議論の醍醐味"を目の当たりにしたのは、東京セッションでのことだった。

東大サイドの提案に良くも悪くも従うだけだった北京大生が、小さな違和感にも反応するようになった。

他者認識、歴史教育、とテーマが移るにつれて北京大生の顔つきが鋭く変わっていった。 

 

北京のときよりもお互いを知っているからこそ、

議論に慣れてきたからこそ、求めるところが深くなった。もっと、もっと分かりたい。

ストラクチャーをすり合わせ、慎重に進む。

 

 

 

ここから、二つのセッションを経て、思ったことを書き綴る。

断続的で、読みにくくて大変申し訳ない。

でもこういう経験あったなとか、確かにそうだなとか、

振り返るきっかけになってくれたら。そしてまた、次を考えるヒントになってくれたらいいと思う。

 

 

「英語はツールだ、流暢に話す必要はない」

そうかもしれない。でもただ内容が伝わればいい、わけじゃない。

 

決めつけたような言い方で相手を傷つけてしまっているかもしれない。相手も、否定しているわけではないとわかってはいるのだろうけど

そして、ヒートアップした議論に参加するには、それなりのスピード感、簡潔な話し方が必要。

片言では、伝えたいことも伝えられない

 

私には失敗を恐れて喋れない時もあったけど、それでも果敢に立ち向かう姿は、見習いたいと思う。

 

 

初めは議論の展開についていくのがやっとだった私も、だんだんと発言できるようになった。少し違うのでは?この場合どう思う?

わかることが増えても、まだある。まだもっとわかる、次の瞬間には。

成長に成長を重ねた日々だった。

 

成長大好きな私にはとても楽しかった、笑

 

 

 

議場の雰囲気づくりはとても大切、でも難しい。

机の端でつまらなそうな様子のメンバーがひとり、

やる気がないなんてことはなく、

大切な議論の一員、

長時間の、でも貴重な時間をどう使うか、

とても難しいと思った。

 

メンバーがすごく楽しそうな様子にしているときは、とても嬉しい。

 

 

 

ちょっと違う、私はこれが言いたい。

相手の言うことを全然理解できていない、フラストレーションが溜まる

こんなに説明してるのに、どうして伝わらないんだろう。同じことの繰り返し、なぜ

 

これこそ「価値観の違い」、

 

 

 

 

議論とは必ずしも、一つの答えをだすものではない

意見に違いが出た時こそが面白いところで、

”WHY”にフォーカスすると見えてくる。相手が、そして自分自身が。

 

 

 

メンバーがそれぞれパートを持っている。個人に寄り添って全体をまとめる議長じゅりさん、ロジックを大事にする小村さん那須さん、

遠目に、冷静かつ温厚な大江さん

自分の役割はなんだろう

 

 

ああ

 

この人たちとの議論が終わるの、すごくさみしいな

、、

 

 

大学に入学したのち、

女子ラクロス部少林寺拳法部、選べなくてどっちも取ってしまった私は、

国際系サークルにさらに手を出して大丈夫だろうか~と悩んでいた。

 

 

京論壇のビラ。価値観をぶつけ合う100時間。

価値観を…、ぶつけあう…

 

競争と人生、新メディア時代の世論と、そして、教育と価値観。

 

ユニークなテーマに惹かれた。

 

応募してみたはいいものの、上級生の中で本当に自分はやっていけるのだろうか、

英語ペラペラではないし、社会問題に特別詳しいわけでもない。

自分じゃない人が入っていれば、もっといい議論ができるんじゃないか、と複雑な気持ちになることも何度もあった。

 

でも、恐らくそういうことではなかった。

価値観をぶつけ合う議論に必要なのは、常にまっすぐでいること。

 

入ったからには、とことん考えて、向き合うのが私のやるべきこと。

 

 

とはいえ、じゅりさんにはいつも気遣ってもらって、ボードメンバーの方々にはたくさん褒めていただいて、(笑)

まだまだ、甘えてばかりの一年生でした。

 

これからの私の課題は、自分の理想の姿を持つこと、

そして

自信と責任を持って語れる専門領域を持つことです。

 

もっと強くなるために、

自分の役割を果たすために。

 

 

杏ちゃんはどう思うの?

杏ちゃんの意見も聞いてみたい。

本当の興味から、聞いてくれる人たち。

 

誰しもが、輝ける場所。誰しもが、居場所を持つ場所。

 

楽しくて、学びがあって、

貴重で、深くて、濃厚な時間。

 

 

今年の京論壇に、一人のメンバーとして参加させていただけて、本当に幸せでした。

 

 

 

 

楽しみにしています、また来年。

 

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文科三類一年 五ノ井杏

【北京セッション渡航記②】北京セッションを終えて

 

こんにちは!「競争と人生」分科会に所属している経済学部3年の吉岡です。 

 

 9/1~9/7まで、北京大学にて北京セッションが行われた。1週間のディスカッションを通して印象に残ったことは多々あり、個々人の価値観の違い、文化交流の楽しさや母国語ではない言語での意思疎通の図り方の難しさ、わかりあえた時のだからこそのうれしさなど、様々な発見や湧き出る感情があった。メンバー各人が、国籍や大学という縛りを取り払って、1人の人間、“自分”としてこのセッションに臨み、各分科会のテーマに取り組むことができたと思う。

 

ここからは、私の分科会のテーマである「競争と人生」について書く。

競争とは何か。これほど多くの人に知られ、その人生に付いてまわるものはない。私達は物心がついた時から、この目に見えない競争を心のどこかで意識しはじめ、親に認められるために、自己を高めるために、はたまた競争に負けて置いていかれないように、それぞれの価値観とやり方とでそれを乗り越えてきた。比較という二元論でしか目の前の事象を捉えられない脳の性質や、動物としての本能、資本主義という“自力で勝ち取れ”方式で動くこの世の中、どれを鑑みても私達が競争するのは当たり前のことだ。しかしここでは、ではその競争の定義とは何か、なぜ私達が競争への独自の価値観を持つに至ったのかなどといった方向へは話を持っていかない。それらをここで書いても参考にはなるにしろ、当人の“真実”ではない。セッション中では個々人の価値観や経験をもとに、競争に参加する動機をいくつかのスケールに分けて可視化した。その成果物に一定の普遍性はある。しかしまさかそれがすべての人間の競争への内情を代弁するわけではない。分科会のテーマにあるように、「人生」は人が違えばすべて違い、言うまでもなく競争の捉え方も違う。また、競争という言葉自体いくらでも定義・解釈のできる包含的な言葉であるのと、私自身、その定義やメカニズムを論理立てて説明することがたぶんできない。だからそれは他のメンバーにお願いするとして、ここでは情緒的な面から競争について触れたい。この文章を読みながら、自分にとっての競争と、それに対してなぜ、どんな気持ちで、どうやってそれに対処してきたのか、心の中で考えてみてください。

ここで私が言いたいのは次のことだ。すなわち、どんな自分であれ、そのままの自分を抱きしめよう。なぜなら、どんな心情、動機であれ、この一筋縄ではいかない社会のしがらみの中を私達は今日この日まで生き抜いてきた。この事実は決して揺るがない。その時点ですでによく頑張ったと自分を労ってよい。

なぜこんなことを言い出したかというと、私自身が競争に疲弊を感じているからだ。小さい時から本能的に競争が大好きで、テストで満点を取っては、絵画で賞をもらっては、リレーで1位になっては自分の小さな自尊心を満たし、次なる競争を探すような子どもだった。競争で何を得ようでもなく、ただただ競争そのものの刺激を楽しんでいた。しかし大学に入ってからその本能が減退した。周囲には出会ったこともないような秀才ばかり、そのきらびやかな経歴にも圧倒され、また単純に競争そのものに“快”を見出せなくなっていたからでもあった。思えば何のために競争をしてきたのか、ここにきてその意味を見出せずにいて、これからどうしようか、何がしたいのかという根本的な問いの答えも思い浮かばない。こんなカオスな現状にいて、とりあえず今私ができる唯一のこと、それは楽しんできたであろうがそうでなかろうが、数々の競争に身を投じ勝ち負けに浮かされてきたこれまでの自分をそのまま認め、ひとまずのOKサインを出すこと。慰めといった悲観への対処でも諦めでもなく、ただひとつの事実をひとつの事実として認めたい。もちろん私のような人間はむしろ少数で、読まれている方の中には、自己成長や自己実現のために勝ち負けという二元的なスケールから脱して競争に参加している方もたくさんいると思う。ただ、そんな方でも一度や二度は優劣や比較という競争を味わったことがあると思う。そしてそんな時、できない自分や敗れた自分を恥じ、悔い、涙を流したこともあると思う。どうかここでは私のわがままにお付き合いいただき、どんな動機、どんな心情であれ、今まで頑張ってきた自分を一度思い出し、認めてみてください。そしてその上で、これから競争とどうやって付き合っていくか、どう生きていくかを考えてみてください。新しい価値観に出会えれば儲けもので、考えが変わらなくても自分の思考に整理はつく。その答えはきっと自分にとっての真実で、今後の自分にとって揺るぎないものになる。それぞれの目標に向けてそれぞれの価値観で、一度しかない人生を存分に生きよう。

 

 

経済学部3年 吉岡優希

【北京セッション渡航記①】北京からみた中国の現在と未来

 

こんにちは!京論壇2019代表の孔です。
先日無事に一週間にわたる北京セッションを終えました。セッション前にいろんなトラブルがあったものの、中間報告会ではすべての分科会が質の高いプレゼンを見せてくれました。例年に漏れず、今年の北京セッションも様々な反省があったものの、東京セッションに向けての期待が高まるような終え方ができたことは本当に幸いでした。今年度の反省を来年以降繰り返さぬよう、引き継ぎの仕方に思索をめぐらせつつ、期待が高まる東京セッションをその期待を上回るものにすべく引き続き尽力してまいります。


今回の北京セッションでは、多くの場面で人の温かみを感じることができた。分科会の議論を見学したり、活動に参加したりするときに、多くの方が温かく迎え入れてくれた。部屋に帰ると、代表特権で獲得した少し広めの部屋に毎晩誰かが訪れてくる。分科会の議論、分科会メンバーの面白い話、キャリア、恋愛など、話題の尽きないセッションが繰り広げられた。通常ボードとデリはある程度の距離ができてしまうものだが、多くのデリと話し、一人一人の人柄に触れられた。もちろんまだまだしっかり話せていない方も多いので、東京セッションに期待したい。そして、特筆すべきなのが、北京大のボードの皆さんやデリの皆さん、そして(昨年の参加者といった)友人たちだ。東大側のわがままに対して、一つ一つ丁寧に応えてくれた。おかげで、タピオカミルクティー、北京ダック、餃子といった中国の食や、タクシーサービス、レンタル自転車といった中国の便利なサービスを堪能でき、異国の地での交流を通じて友情を深められた。文化の壁を越えて交流を深め、異国の地で友情が芽生えることはやはり尊いものである。
もう一つ印象的だったのが、参加者一人一人の変化である。北京セッションに至るまでに多くの人が悩み、もがく様子をみてきた。それに対して、自分の力不足を何度も痛感した。実際にセッションが始まると、一人一人の目つきが変わり、真剣に議論に向き合う様子が印象的だった。僕自身北京セッションに至るまで多くの点で至らないところがあったものの、参加者の様子は常に僕自身を奮起させてくれた。このように、一人一人が何かに真剣に向き合い、変化してゆく姿はやはり本当に素敵で、京論壇がすべての参加者にとってこのような場であり続けるようにしたいと強く思った。東京セッションがますます楽しみだ。

 

さて、せっかくなので、僕自身が北京で個人的に感じたことを何点か書きたいと思う。
北京という場所は僕にとって特別な場所である。小さいころに住んでいたから懐かしさや哀愁的な感情を覚える一方、僕は日本で暮らす時間が人生で多くを占めるため外国に行くときに感じる高揚感みたいなものも覚える。しかし、昨年と今年合わせて3度もいっているため、だんだん外国で感じる高揚感といったものが少なくなり、懐かしさといった感情が徐々に思い出されるようになってきた。
発達したデリバリーサービスや整備された地下鉄など、自分が住んでいたころの北京にはない便利さを味わいながら、かつての自分の内側にあった中国人らしさを思い出し、この国の人として生きることも悪くなさそうだ、なんて思った。しかし、第三者的な視点で中国の人たちの行動にツッコミを入れてしまうあたり、もうそれは不可能なのかもしれない。


今回の北京渡航で感じた細かいエピソードを取り上げながら、すこしでも中国という国が面白いと感じられるようにできたらと嬉しく思う。

合理的な中国人

飛行機を降りて、真っ先に目につくのがおしゃべりしながら仕事の合間を楽しんでいる空港の掃除のおばちゃんだ。こんな光景、日本の空港ではなかなか目にできないだろう。中国の人は適当なんだな、なんて普通の日本人は思うかもしれない。実際、僕でさえ思う。指紋採取での入国手続きや荷物検査をくぐり抜け、タクシーで宿泊ホテルに向かう。たどり着いた前泊のホテルは派手な外装で飾られている。しかし、部屋にたどり着くと、驚きの連続であった。確かに所々綺麗に飾られているが、壁がやぶれていたり、窓が完全に閉められなかったりしていた。ホテルで一番面白かったのが、ロビーで爆睡する警備の方だ。確かに夜遅くで眠いだろう。しかし、もはや職務放棄ともいえる行為を誰も止めず、誰も何も突っ込まない光景は、日本人から見たらとてもシュールなものだ。外に出てみると、ホテル周辺に警備員はいるものの、動画を見ながらおしゃべりをしていた。翌日市内を観光しながら、中国人の適当さを感じるようなシーンにいくつか出くわした。例えば、これは中国に慣れてしまえば全く気にならないが、売店やコンビニでの店員の態度が日本に比べると適当なのだ。日本のようにかしこまった言葉遣いや態度なんて決してとらない。一つの会計が終わるとすぐに、次に会計の対応に入るし(日本なら客が去ってからだろう)、言い方もぶっきらぼうだ。再現してみるとこんな感じだろうか。(中国語に敬語がないことももちろん関係していると思うが)
店員:「◯◯円よ」
僕「現金でも大丈夫ですか?」
店員「いいよ」
(会計終了すぐ)
店員「はい、次の人きて〜」

中国では(特に北京では)セキュリティが厳しく、地下鉄ですら空港と同じような荷物検査をさせられることが多い。しかし、地下鉄におけるセキュリティは形式的なものという側面が強く、実際スタッフもかなり適当で、金属探知機が鳴っても何もしないことが多い。
さて、なぜ中国の人はこんなに適当なんだろうか。これを説明するキーワードの一つとして、中国人の"合理性"があると私は考える。中国人は合理性、特に自分自身にとっての合理性、を重視する傾向にあると私は感じる。例えば、先ほどのホテルのフロアで寝る警備員の例を考えてみよう。彼にとっては、寝ても寝なくても、給料は変わらない。そして、周囲の人にとっても、監視カメラがあり、しかも深夜のホテルはそんなに人が訪れない中で、トラブル等もあまり発生しないと考えられ、彼をわざわざ起こす必要性を感じられない。このように、彼が楽することが彼にとって最善であり、周りの人がそれを止める必要性もないため、警備員がホテルのフロアで寝るという事態が起きるのだ。同じように、動画を見るホテル周辺の警備員、言葉遣いが(日本に比べて)雑な店員、形だけのセキュリティチェックをこなす地下鉄の職員、彼らは彼らにとって一番楽でかつ周りに許される方法をとっている。
実際、中国人は合理的だという声を僕よりも上の社会人の方から聞くことも多い。それが、ビジネス現場における中国企業の意思決定の早さなどにも出ているだろう。以前、インドネシアでの高速鉄道をめぐり、日本の新幹線が中国の高鉄に敗れたことが話題になった。アフリカや東南アジアなどあらゆる地域に向けて積極的に進出する中国企業の勢いに、私たちが見習うべき部分があるかもしれない。


もう一つ、中国で印象に残っているのが、電子決済、デリバリーサービスの発達やタクシーアプリの発達、レンタル自転車サービスの発達など、日本ではあまり広まっていない便利なサービスの数々だ。そして、これらは僕が暮らしていたころの中国にはなかったものたちばかりだ。なぜこんなにサービスが広まるのが早いのか。理由はいたってシンプル、便利だから。便利なものをどんどん取り入れて使いこなす中国人はやはり合理的である。そして、日本では、規制などももちろん背景にあるが、なかなか便利なサービスがすぐに広まらないことも多い。キャッシュレス化の必要性は長く叫ばれているものの、いまいち広まっていない。もちろんいろんな意見があると思うが、どんどん便利になりゆく中国社会に対して、どこか日本社会にもどかしさを感じる人はきっと僕だけではない気がする。

 

社会に充満するパターナリズムとその限界

中国ではあらゆるところに広告が貼られている。地下鉄に乗っているときに外に目を向けるとトンネルの壁に広告が流れていたりする。エスカレーターに乗ると、取っ手や隣のレーンとの間の空間に広告が貼られている。ホテルのエレベーターに乗ると、天井やドアの内側に広告が貼られている。日本人には考えられないようなところに、広告がたくさん張り巡らされている。その内容は様々だが、教育系の広告の多さが目につく。日本にもよくあるような大学受験の塾はもちろん、MBAや海外留学の対策塾、TOFELなどの民間の英語検定の対策塾、さらには小学生中学生向けの塾の広告もある。もちろん日本にも教育系の広告はたくさんあるが、その量とバラエティの豊富さは日本の比ではない。中国人家庭は教育に厳しいというのは、多くの日本人の知るところでもあり、実際に作者自身小さい頃はかなり勉強面で厳しく叱られた経験が何度もある。教育にみられるように、中国社会はものすごく競争社会である。いい大学にいくために死ぬほど勉強して(しかも二次試験や私大がある日本とは違い、中国はすべての大学が”高考"とよばれるセンター試験みたいなもので一発で決まる)、そしていい大学に行けても学部だけではいい企業に就職できず、ほとんどの人は留学もしくは院にいき、一生懸命勉強してもそれでもなお就活で厳しい競争にさらされる。これだけの競争社会であるため、親は子どもに対し小さい頃から厳しく教育する。幼稚園の頃から習い事をたくさんさせ、小学校・中学校にかけて厳しく教育し、高校に入るともちろん大学受験のための勉強をたくさんさせる。このような厳しい環境を嘆く中国の学生の声をなんども聞いてきた。「高校の頃は親と先生双方から恋愛を禁止された」「なんども病みそうになった」「日本からの留学に帰ると、中国の大学はなんてプレッシャーとストレスに満ちてるだろうかと思った」。作者自身は小学校三年生までしか中国にいなかったが、何度も執務室で居残りをさせられた記憶がある。さて、このような厳しい環境はどのような副作用をもたらすのだろうか。中国では近年、”仏系”とよばれる若者が出現し、日本でいう「さとり世代」に近いものである。北京大学といった名門大学でも、ネトゲ廃人が増えていると聞く。かつて日本で80年代、90年代にヤンキーの登場や援交ブームなどに代表されるような若者の不良化が起きたこと、さとり世代、草食系男子など若者の無気力化が近年起きていることを想起させる。過度なプレッシャーの副作用は中国社会でも出始めている。

今の中国社会には至る所にパターナリズムが充満していると私は感じる。パタナーリズムとは、父権主義、温情主義、家父長制などとも言い換えられ、wikipediaによると「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志を問わずに介入・干渉・支援することをいう」そうだ。つまり、上の立場にあるものが下の立場に対し、下の立場のためにと思ってもしくはそのような名目のもとで、いろいろお節介をすることをさす。パターナリズムは日本や韓国といった東アジア諸国でも根強い。ただ、日本は高度経済成長が終わって社会が安定したこともあり、以前ほどこのような傾向は強くなくなった。他の国に比べても、中国はパターナルな傾向が強い。これまでみてきたように、上の世代の人たちが下の世代の子どもたちに対して行っていた干渉は度を超えたものであった。しかし、若者は競争に疲れ果て無気力化し、パターナリズムの副作用がもうすでに社会のあらゆるところで見られている。この副作用にどのように向き合うか、さらなるパターナリズムで抑えるのか、それとも別の方法を模索するのか。各所で張り巡らされる教育の広告を見ながら、この巨大な社会の行く末に思索をめぐらせた。

結び:永遠に終わらない中国理解の旅

ここまで書いて、「中国」「中国人」といった大きな主語を多用していることに気づいた。中国について書く記事だから、当たり前といえば当たり前だが、ヘイトスピーチなどにみられるよう、大きな主語で何かを語ることは時として偏った見解を導く。特に、中国社会に関して語るとき、それがもつ巨大さとダイナミックさゆえに、よりいっそう慎重に語る必要があるだろう。
実際、自分が書いた内容を振り返ると捨象してしまった側面がいくつもあることに気がつく。中国にも生真面目で礼儀正しい人はたくさんいるし、受験や就活といった競争を勝ち抜いて人生を謳歌している人はたくさんいるだろう。よく友人に「中国の人は◯◯に関してどう思っているの?」と聞かれるが、答えに窮することが多い。あまりにも多様な意見が存在するからだ。僕がここで書いていることはあくまで僕が感じた中国社会の傾向であり、それが必ずしも正しいとは限らない。結局中国を理解するには、自分がみた現実をしっかり振り返りつつも、自分が見なかった部分にも想像をめぐらせ、様々な声や意見をもとに、より確実そうな理解を常にアップデートし続けるしかない。

帰国するとき、眠い目をこすりながら、ふと次いつ中国にくるだろうかと考えた。そして、次来るときどのような中国が見られるのだろうか。若干の不安とそれをはるかに上回る楽しみを胸に抱きながら、故郷・日本に帰る飛行機に身を乗せた。

 

【分科会コラム】競争と人生分科会 〜「頑張る」とは〜

京論壇の半分は東大生で占められている。

 

ということで、東大らしい話題を一つ。

 

東大の進振り制度。みんなも一度は聞いたことがあると思う。

 

1年生と2年生の途中までの成績を元に、3年生からの進学先を決める制度で、その競争は熾烈を極める。

 

と言いつつ、僕の所属している文一ではここ数年少し奇妙なことが起きている。

 

法学部文一枠が底割れしているのだ。

 

簡単に言ってしまえば、文一から法学部に行くのに点数なんていらない、ということだ。

 

やったね。頑張らなくていいじゃん。

 

みんなそう思うと思う。

 

確かに、みんなそんな安心感の中にいると思う。

 

でも、実際はみんなが思ってるより、みんな頑張ってる。

 

点数なんかいらないのに、必死に試験勉強する。

 

––––なんで?

 

そんな僕も、いい点数取ろうとして勉強してる真っ最中。

 

「競争と人生」

 

そんなテーマにぴったりな話題だと思った。

 

頑張らなくていいのに頑張る理由って何なんだろう?

 

何も役に立つことのない点数を取るために、何をそんなに頑張ってるんだろう?

 

中国のネットで話題になっている言葉がある。

 

「仏系」

 

他人の意見に関わることなく好きなことをして生きていく。

 

必要最低限の要求を満たせば、それ以上追求しない。

 

ニートで生活できるならそれでもいいとまで考える。

 

「仏系」にとって文一の環境は、願っても無い場所だと思う。

 

他人と無理に競争して傷つくくらいなら、競争なんて必要ない。

 

自分の好きなことだけをして行きていけるなら、そっちの方がいい。

 

関連して、もう一つ、面白い話題を紹介したい。

 

「BI」という言葉を聞いたことがあるだろうか?

 

ベーシックインカム」といって、年齢・性別・所得の有無を問わず、すべての人に所得保障として一定額の現金を支給する制度である。

 

もし、努力しなくても暮らしていけるなら、あなたは努力するだろうか?

 

AIが人の仕事を奪うに連れて、仕事の獲得競争はますます激化すると考えられる。

 

そんな中で、もしBIが存在していたら、あなたはどうするだろうか?

 

ここで、僕は重要なテーゼを提示したい。

 

人は、何のために頑張るのか?

 

頑張らなければならないから頑張る、なんて答えは求めてない。

 

だって、頑張らなくていい世界がすぐそこまで来てるんだから。

 

じゃあ、何のために頑張るのか?

 

ここから先は、僕の考えになる。

 

是非、みんなもこの先を読む前に、このテーゼについて考えてほしい。

 

––––シンキングタイム––––

 

きっと、その答えは「自分が本当にやりたいこと」にあるのだろうと思う。

 

あなたはその「本当にやりたいこと」に向かって頑張る。

 

その「頑張る」ことによって、あなたの価値が決める。

 

ここで言う「価値」は、社会によって決められるものでは、決してない。

 

社会における「価値」ではなく、自分自身における「価値」なのである。

 

文一の環境は、この重大なテーゼを如実に表している。

 

点数という価値基準なんかに縛られずに、自分の好きなことができる。

 

自分の好きなことに、好きなだけ「頑張る」ことができる。

 

もちろん、「頑張ら」ないってこともできる。

 

そんな自由の中で、自分が、いや、自分だけが、自分の価値を決めることができる。

 

この奇妙な現象も、視点を変えてみれば、素晴らしい環境じゃないかって思う。

 

世の中には、様々な価値観がある。

 

他人の価値観を否定してはいけないけれども、かと言って、絶対視する必要もない。

 

自分は自分、他人は他人。

 

他人と比べて、傷つく必要なんてない。

 

周りの目を気にして、自分の好きなことができなくなる必要なんてない。

 

他人と戦うために競争するんじゃなくて、自分と戦うために競争する。

 

「頑張る」って、そういうことだと思う。

 

––––最後に。

 

あなたが考えた「何のために頑張るのか」に対する答え。

 

一生、忘れずに大切にしていってほしい。

 

その答えが、これから来る世界の中で、あなたの価値を決めるものになるんだから。

 

文科一類1年 久保田拓宏

【参加者コラム:井上史菜】〜劣等感はいつ生まれるか〜

兼好法師の時代は、
〇〇人に対して心理実験を行なった結果〇〇%において、という先行研究などもなく、
徒然なるままに人間ってこんなもんじゃないかな、
という自分の思考を書き連ねることが出来たわけで、
そういう言葉の方が人々にとってみたら、
そうだなあ、ああ、そうだそれだ、
という心の奥でほっとするような共感を生んでいたのだと思う。

 

私も新書を読むのが苦手なので今から書くことは、
科学的に見たら全部でたらめで、
適当なことばっかりなのですが、
人の心にとって“適当“な温度ですんっと響くような話ができたらな、
と思います。

 

人間関係における劣等感、人間関係を壊す劣等感
例えば、稚拙に聞こえる死活問題としての「恋愛関係における劣等感」というものがある。
例えば、付き合っている人が他の女子に笑いかけているとする。その時に一時的な嫉妬心というかちくっとするものを感じてしまう性なのだが、その相手がクラスで一番可愛い子だったりするとその一時的なちくっが、もやっとなって何日間も残ったりする。そして、もやっが頭の中で具体的な言葉を帯びてくると、「本当はみんなあのマドンナと付き合えたらって夢見るけど、現実的な選択肢としての自分がいるんだろうな」と、自分の顔がどうしても嫌になってくる。
その時、人間関係における劣等感が生まれている。私と付き合っている人との関係の外側にいるはずの人と自分とを比べて、自分のことが肯定できなくなってしまう。

 

勿論、付き合っている人本人に感じる劣等感もある。
同じ目標に向かって歩いていたのに、私だけ行き止まりになって置いて行かれてしまったとき、もしくは、自分が歩こうと気概を持って踏み出した道に実はその人の足跡が点々と先の方まで伸びていることに気がついたときに、ため息をつきたくなる。
ため息だけで終わらないこともある。その人と一緒にいることが嫌になってくる。
心では分かっていても、その人だけが歩んだ道、もしくはその人がもう歩んだ道の話を聞いている時に、だめだだめだと思っているのに、言葉尻の一つが気になってやはり自分は見下されているのではないかと思って、話が楽しくなくなってしまう。
その心のわだかまりを他の理由で誤魔化して別れてしまったこともある。

 

だから、私は劣等感なんか感じなきゃいいのにって思っている。
人と自分を比べて、自分を肯定できなくなってしまうかその人を意地悪な人のように感じてしまうかのどちらかなのだから、こんな感情持ちたくない。
なんで悔しい、自分も頑張ろうって思えないんだろう。顔は可愛くなれなくても、自分は他のいいところがあるからそこを伸ばそうって思えないんだろう。

 

劣等感はいつ生まれるか
私の持論として、赤ちゃんは劣等感を持っていない、と思っている。
子供好きで、色んな子を見てきたのだが、引っ込み思案な子はいるけども目の高さを合わせておしゃべりする時にはすっかり生き生きとしている。元気な子に押されて自分をうまく表現できない様子が劣等感を感じているかのように見えても、おしゃべりな子への羨望の眼差しとか、むしろ逆にうるさいなあと思っているかもしれないけど、それは劣等感ではないと思う。劣等感は、吐き出せなくて自分の中に詰まっていって一人ぼっちになった時の方がひしひしと感じられてしまうものだから、その子が元気な子から離れた時にぱあっと笑顔になる限り、それは劣等感の一歩手前の感情なのだと思う。
劣等感の一歩手前の感情が、いとも簡単に劣等感と結びつき始めるようになる年頃というものがある。

 

私は、小学校高学年になってもその段階を迎えていなかった。
あの頃はなぜか自分に自信満々で、例えば、全ての男子は実は自分のことを好きで今すぐにでも告りたいのに勇気がないのに違いないと少女漫画のような展開を夢見ていた。(少女漫画を読んだことはなかったが笑)
単純に劣等感というものを知らなかった。
色んなことがあったけど、例えば、自分の好きな人の好きな人も、二番目に好きな人の好きな人も共通して自分の親友だったし、所属するコーラス部では「あの子声量はあるけど声が汚いからね」という先生の話し声が聞こえたけど、どんな時も「悔しいな、でも自分のいいところを伸ばそう」って思ってポジティブ100%で乗り切っていたし、無理したこともなかった。
私は、劣等感というものを感じるのは他人の目を意識し始めた時と重なるんだと思う。
二人を密かに好きだったから、親友から「二人ともに振られた感じになって可哀想」と思われることもないし、先生は私の声が汚いからといって「ダサい」と思うのではなく、声量の子として存分に使おうとしてくれるんだろうと思っていたし、だからソロパートが一人だけ割り振られなくても、ちょっと悲しかったけど、でもそれはそれで終わりだった。

 

でも、付き合っている人の方がはるかに優秀だと、周りから凸凹カップルって思われているんじゃないか、と気が気でならなくなる。その人のことは尊敬している。その人が先に歩んでいた道もすごいなと思っている。なのに、近くにいることが恥ずかしくなってきて、近くにいる釣り合わない自分とか、他の子に劣っているのに付き合ってもらっている立場という自分とかが、嫌になってくる。
よくよく考えたら人の足跡を踏んで歩くことなんてあったりまえのことだ。似たようなことをしている先輩とか、もっとすごいことを成し遂げている同級生の話とか、いっぱい知っている。エジソンの方がすごいけど、エジソンに劣等感なんて感じない。でも、近くにいる人が自分より優れている、そのことだけでなんで心が苦しくなるんだろう。
ある時から私たちは、世の中には一定の評価基準というものが存在することを知り始めるのだ。みんなが持っている価値を測る物差しっていうものが大体これと決まっていて、他の基準はなんだかその評価から漏れる人を慰めるようなものにしか聞こえなくなってくる。「でも、声が大きいから」とか「でも、スポーツはできるから」とか取ってつけたような慰めに聞こえてくる日がくる。その時に、近くにいる人が慰めじゃない本当の賞賛を受けていたら、自分はその人の脇役のように見えてきて、嫌で嫌でしょうがなくなる。
それは他の人の目が、主役と脇役を見極める目が、あることを感じて、自分が脇役なんかにされていることが自分にも申し訳なくて、たまらなくなるんだと思う。

 

劣等感は本当に必要か
二人きりでいる時もこの言葉は見下しているんじゃないかと感じるのなら、他人の目なんて関係なく劣等感は起きていると言うかもしれない。
でも、二人でいるときも私たちは他人の目の評価軸を気にしているとは言えないだろうか。
だって、付き合っている人や兄弟や、親友や、本当に近くにいて、お互いに応援している人のことが羨ましくなっても、自分が負けてて悔しくても、その時に負の方向の感情を生み出す必要なんて何もないはずだ。その人のそんな側面を尊敬して、自分も負けないように同じことを頑張るなり、あえてその道を避けて他のことを頑張るなり、なんだってその人と一緒にいる道はある。エジソンがすごくてもエジソンの伝記を捨てたりしないのと同じように考えられたらいい。
他人から、「セット」のように捉えられていると思ってしまった時、または自分が他人の立場で他人の目を借りて「セット」として見ている時に劣等感は強く強くなる。
近しい人と一対一でおしゃべりする時、相手の目に映る君は、今この瞬間、相手にとってたった一人目の前にいる相手だから、脇役なんかであるはずもないのに。
しかも、その関係にはもっともっと大きな評価基準がある。それはその人のことをどれほど大切にしたいかという心のこもった基準で、そんなものの前では勉強の出来とか、俗に言う優秀さとかどうでもいい、そう思えるはずだ。
でも私たちはうっかりするとその大事な評価基準が、またこれも慰めの言葉で、一般的な見方から言う所の大事な物差しの、高いところにいる方から下さった言葉のように捉えてしまう。それで嫌味や自慢やマウントに聞こえて、もう嫌だって離れちゃうのかもしれない。
でも、目と目を見て、ちゃんと一対一で考えられたら、その大切な関係にはそんな基準はちっぽけでこれっぽっちも大切でないこと、また、他の基準で輝くあなたへの近しい人からの言葉は慰めでもなんでもなく、あなたのすごいところへの心からの、純粋な賞賛であることがだんだん分かってくるはずだ。
その時にひねくれた疑いなんてかけなくていい。他人の持つ眼鏡をその二人に持ってこなくていい。
劣等感なんて感じなくていい。感じてしまっても忘れちゃえばいい。忘れられなかったら、目を見て。その人は本当に君のことを馬鹿にしていないし、すごいと思っているし、全部丸ごと大好きで大切にしたくて応援したくて、だからずっと一緒にいてもいいし、自分のすごいとこを相手に自慢してもいい。他の人はあなたのことをあんま知らなくて“いつもの基準“で適当な賞賛ばかりするかもしれないけど、あなたのことをよくよく知ってるからこそ、あなたの全てに乾杯したいって本当に思っているから、自慢だって待っている。

 

さようなら、劣等感

劣等感は負の方向に自分を突き落として、他人を信じられなくなってその人と一緒にいるダサい自分を見られたくなくて逃げたくなるようなものだ。
でも、そんなみんなの目を気にする必要なんて全然ないと思っている。
他人なんてしょーもない。忘れちゃえ。それよりも応援してくれている人のことを見て。

 

劣等感を感じそうになったら、一歩踏みとどまって、自分のすぐ近くの素敵な関係に気づくことができて、最高の相手、友達、家族に自分のいいところが自慢できるようになって、その関係を大切にし返せる人が少しでも増えたらいいな、と思う。

【参加者コラム:王美月】〜競争社会の果てに〜

深夜。ノートパソコンに向かって、入れ直した紅茶を飲みながらまた考える。

コラムって、何書けばいいんだろう。

 

人と話すのは好き。コミュニケーションとはまさにキャッチボールであり、相手がいてこそ成立しうる。相手のことを知るにつれて、「この人だからこそ」、話したいことが自然と自分の中で湧き上がってくる。それに対して、フリーコラムは見えない相手に対して一方的にボールを投げているようで、苦手である。

 

みんなに訴えかけたいことと言うが、簡単には出て来ない。人にはそれぞれの価値観があるが、優劣をつけてはいけないと思う。大事なのは自分に合う合わないか。私にとっての正義も所詮自分の価値観の一部だから、他人に押し付けることはできない。「私はこういう理由でこの考え方が合っているのですが、ご参考になれば…」というスタンスをとってしまいがち。だからこそ、大声で伝えたい何かがある人はかっこいいな、と思う。強い問題意識を原体験として持っていたりして、心の根底に外に出したくてたまらない、淀めく感情があるのかな、と想像し、一種の羨ましさを覚える。

 

加えて、顔が見えない辛さもある。どういう伝え方の良いのか。あまりにも判断材料が少ない。会話であれば、相手の特徴を理解して、共感してもらえるような話し方にしようと努力できる。この人は感覚的な言葉遣いをすることが多いなだとか、こういう気持ちの時にここの表情筋が動くんだとか、色々細かい癖がわかる。が、マスになるとだいぶ難しい。感覚に訴えるエモさとロジックさのバランスが掴みづらい、というような感覚。

 

うーーーーーーん。また迷ってしまう…

とか言っていたらそろそろ怒られそうだ。

 

今回は我らが「競争と人生」分科会のトップバッターを任されている。責任重大。駄目文で恐縮だが、一個人として私の競争についての価値観について話したいと思う。

 

 

 

まず、競争には2種類あると思う。

1つは、自己達成を叶える手段としての競争。

もう1つは、自己承認欲求や優越感を満たす、目的としての競争。

 

結論から言うと、競争自体を目的にしてしまったら、それほど虚しい人生はないなと思う。

理由は二つある。

まず、外部の基準に自分の人生を振り回されることで生まれる疲弊。

それに加えて、自己承認欲求には終わりがないということ。エンドレスダークスパイラル。

 

人生のゴールは幸福追求である。幸せは人それぞれだから、それに良し悪しはつけていけない。本人が死ぬ前に人生幸せと思えるかどうかが一番大事、と思う。

だが、もし競争が目的化してしまったら、果たして幸せな人生を送れるのだろうか?

 

まず言えるのは、自分の幸せを全て外部の評価に預けることになる。

外部にある社会は常に変わりゆくもので、その時々で評価基準は常に異なる。さらに言えば評価分野も数え切れないほどある。余談だが、一部の高校生はSNSのいいね!を競い合うことでスクールカーストを決めると聞いたことがある。学校だけでも挙げ切れないほど競い合いはあるのに、家に帰ってもSNSで人気を競い合わないといけない。こんな不安定な評価に毎日振り回されて一喜一憂しまったら、精神的な疲弊は言うまでもない。

 

次に、一旦他人から認可されたところで、自己承認欲求は一時的にしか満たされない。自信が持てない限り付きまとう問題だと思う。

自信を持てない弱い自分を必死に隠して、優越感や他人からの褒め言葉でガードして、必死に自尊心を保とうとする。けれども、ガードは脆い。今まで自分が優越感に浸っていた分野において、自分より優れている人が現れるだけで簡単に崩れてしまう。バックボーンを持たない弱い自分が明らかになる。アイデンティティクライシスに陥る。そのコンプレックス的な穴を埋めるために、さらなる自己承認欲求を求めると、エンドレスになる。

 

あなたはどうなりたいの?と言われた時に、自分の答えが見つからない。社会の基準に振り回されてずっと生きて来たから。

そんな人生はきっと辛いと思った。

 

私は競争自体を否定しているわけではない。なぜならば、人は他人との比較においてしか、自分を相対化できないからだ。

競争自体は、間違った使い方をしなければ、他人との違いを知り、自分の得意不得意を見極め、なりたい自分を考えるいい機会になる。

 

 

私は生まれも育ちも中国で、13年間中国で過ごした。中国では当時一人っ子社会ということもあり、子供たちは親の期待と面子を背負っていた。私も、幼い頃から競争社会の現実を痛いほど叩き込まれた。物覚えがある頃から習い事をさせられていた。学校のテストや習い事で良い点を取ると、先生からは特別扱いされ、親からは褒められた。嬉しかった。

幼い自分は、とにかく親を喜ばせたかった。一位を取ることは周りに愛されるための条件だと思っていた。いつのまにか、一位にならなきゃいけないんだ、という強迫意識のもとで動いていたと思う。

 

日本に来てから、カルチャーショックを受けた。通っていた公立の中学では協調性を重んじる文化があった。いい点数を取ったからといって特別な扱いは受けない。当然、今までの自分のやり方は通用しなかった。ガーンと頭を殴られたような衝撃だった。今まで自分を支えていた、正しいはずの価値観が破壊された。なんだここはと思った。

そのうち、そんな当たり前なことにびっくりしていた自分を、あり得ないと思うようになった。どうしてそんな単一な判断軸で人を見ていたんだろう、と。その時、外部環境が人の価値観までも作るんだと思った。そして、滅多なことがない限りその価値観は揺るぎないんだろうなと思う。

 

日本に来てから、そろそろ9年になる。

振り返って思うのは、一人一人の生き方や個性に、勝ち負けはないということ。その個性の生きやすさや正しさを決めるのは、今の社会であること。

我々は外部から刷り込まれた判断軸を、自分の価値観としてだと信じて疑わない、ということ。

 

競争に勝つことが目的ではないし、みんな得意不得意はあるが、それぞれに光るものは必ずある。努力した結果がうまくいかなくても、落胆しなくていいと思う。振り返って次に活かせばいい。昨日よりちょっと上手くなったかな、という自分の中の小さな成長を喜べるようになりたい。

 

 

東京大学文学部3年

王美月