京論壇2019ブログ

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【参加者コラム:王美月】〜競争社会の果てに〜

深夜。ノートパソコンに向かって、入れ直した紅茶を飲みながらまた考える。

コラムって、何書けばいいんだろう。

 

人と話すのは好き。コミュニケーションとはまさにキャッチボールであり、相手がいてこそ成立しうる。相手のことを知るにつれて、「この人だからこそ」、話したいことが自然と自分の中で湧き上がってくる。それに対して、フリーコラムは見えない相手に対して一方的にボールを投げているようで、苦手である。

 

みんなに訴えかけたいことと言うが、簡単には出て来ない。人にはそれぞれの価値観があるが、優劣をつけてはいけないと思う。大事なのは自分に合う合わないか。私にとっての正義も所詮自分の価値観の一部だから、他人に押し付けることはできない。「私はこういう理由でこの考え方が合っているのですが、ご参考になれば…」というスタンスをとってしまいがち。だからこそ、大声で伝えたい何かがある人はかっこいいな、と思う。強い問題意識を原体験として持っていたりして、心の根底に外に出したくてたまらない、淀めく感情があるのかな、と想像し、一種の羨ましさを覚える。

 

加えて、顔が見えない辛さもある。どういう伝え方の良いのか。あまりにも判断材料が少ない。会話であれば、相手の特徴を理解して、共感してもらえるような話し方にしようと努力できる。この人は感覚的な言葉遣いをすることが多いなだとか、こういう気持ちの時にここの表情筋が動くんだとか、色々細かい癖がわかる。が、マスになるとだいぶ難しい。感覚に訴えるエモさとロジックさのバランスが掴みづらい、というような感覚。

 

うーーーーーーん。また迷ってしまう…

とか言っていたらそろそろ怒られそうだ。

 

今回は我らが「競争と人生」分科会のトップバッターを任されている。責任重大。駄目文で恐縮だが、一個人として私の競争についての価値観について話したいと思う。

 

 

 

まず、競争には2種類あると思う。

1つは、自己達成を叶える手段としての競争。

もう1つは、自己承認欲求や優越感を満たす、目的としての競争。

 

結論から言うと、競争自体を目的にしてしまったら、それほど虚しい人生はないなと思う。

理由は二つある。

まず、外部の基準に自分の人生を振り回されることで生まれる疲弊。

それに加えて、自己承認欲求には終わりがないということ。エンドレスダークスパイラル。

 

人生のゴールは幸福追求である。幸せは人それぞれだから、それに良し悪しはつけていけない。本人が死ぬ前に人生幸せと思えるかどうかが一番大事、と思う。

だが、もし競争が目的化してしまったら、果たして幸せな人生を送れるのだろうか?

 

まず言えるのは、自分の幸せを全て外部の評価に預けることになる。

外部にある社会は常に変わりゆくもので、その時々で評価基準は常に異なる。さらに言えば評価分野も数え切れないほどある。余談だが、一部の高校生はSNSのいいね!を競い合うことでスクールカーストを決めると聞いたことがある。学校だけでも挙げ切れないほど競い合いはあるのに、家に帰ってもSNSで人気を競い合わないといけない。こんな不安定な評価に毎日振り回されて一喜一憂しまったら、精神的な疲弊は言うまでもない。

 

次に、一旦他人から認可されたところで、自己承認欲求は一時的にしか満たされない。自信が持てない限り付きまとう問題だと思う。

自信を持てない弱い自分を必死に隠して、優越感や他人からの褒め言葉でガードして、必死に自尊心を保とうとする。けれども、ガードは脆い。今まで自分が優越感に浸っていた分野において、自分より優れている人が現れるだけで簡単に崩れてしまう。バックボーンを持たない弱い自分が明らかになる。アイデンティティクライシスに陥る。そのコンプレックス的な穴を埋めるために、さらなる自己承認欲求を求めると、エンドレスになる。

 

あなたはどうなりたいの?と言われた時に、自分の答えが見つからない。社会の基準に振り回されてずっと生きて来たから。

そんな人生はきっと辛いと思った。

 

私は競争自体を否定しているわけではない。なぜならば、人は他人との比較においてしか、自分を相対化できないからだ。

競争自体は、間違った使い方をしなければ、他人との違いを知り、自分の得意不得意を見極め、なりたい自分を考えるいい機会になる。

 

 

私は生まれも育ちも中国で、13年間中国で過ごした。中国では当時一人っ子社会ということもあり、子供たちは親の期待と面子を背負っていた。私も、幼い頃から競争社会の現実を痛いほど叩き込まれた。物覚えがある頃から習い事をさせられていた。学校のテストや習い事で良い点を取ると、先生からは特別扱いされ、親からは褒められた。嬉しかった。

幼い自分は、とにかく親を喜ばせたかった。一位を取ることは周りに愛されるための条件だと思っていた。いつのまにか、一位にならなきゃいけないんだ、という強迫意識のもとで動いていたと思う。

 

日本に来てから、カルチャーショックを受けた。通っていた公立の中学では協調性を重んじる文化があった。いい点数を取ったからといって特別な扱いは受けない。当然、今までの自分のやり方は通用しなかった。ガーンと頭を殴られたような衝撃だった。今まで自分を支えていた、正しいはずの価値観が破壊された。なんだここはと思った。

そのうち、そんな当たり前なことにびっくりしていた自分を、あり得ないと思うようになった。どうしてそんな単一な判断軸で人を見ていたんだろう、と。その時、外部環境が人の価値観までも作るんだと思った。そして、滅多なことがない限りその価値観は揺るぎないんだろうなと思う。

 

日本に来てから、そろそろ9年になる。

振り返って思うのは、一人一人の生き方や個性に、勝ち負けはないということ。その個性の生きやすさや正しさを決めるのは、今の社会であること。

我々は外部から刷り込まれた判断軸を、自分の価値観としてだと信じて疑わない、ということ。

 

競争に勝つことが目的ではないし、みんな得意不得意はあるが、それぞれに光るものは必ずある。努力した結果がうまくいかなくても、落胆しなくていいと思う。振り返って次に活かせばいい。昨日よりちょっと上手くなったかな、という自分の中の小さな成長を喜べるようになりたい。

 

 

東京大学文学部3年

王美月