京論壇2019ブログ

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【北京セッション渡航記①】北京からみた中国の現在と未来

 

こんにちは!京論壇2019代表の孔です。
先日無事に一週間にわたる北京セッションを終えました。セッション前にいろんなトラブルがあったものの、中間報告会ではすべての分科会が質の高いプレゼンを見せてくれました。例年に漏れず、今年の北京セッションも様々な反省があったものの、東京セッションに向けての期待が高まるような終え方ができたことは本当に幸いでした。今年度の反省を来年以降繰り返さぬよう、引き継ぎの仕方に思索をめぐらせつつ、期待が高まる東京セッションをその期待を上回るものにすべく引き続き尽力してまいります。


今回の北京セッションでは、多くの場面で人の温かみを感じることができた。分科会の議論を見学したり、活動に参加したりするときに、多くの方が温かく迎え入れてくれた。部屋に帰ると、代表特権で獲得した少し広めの部屋に毎晩誰かが訪れてくる。分科会の議論、分科会メンバーの面白い話、キャリア、恋愛など、話題の尽きないセッションが繰り広げられた。通常ボードとデリはある程度の距離ができてしまうものだが、多くのデリと話し、一人一人の人柄に触れられた。もちろんまだまだしっかり話せていない方も多いので、東京セッションに期待したい。そして、特筆すべきなのが、北京大のボードの皆さんやデリの皆さん、そして(昨年の参加者といった)友人たちだ。東大側のわがままに対して、一つ一つ丁寧に応えてくれた。おかげで、タピオカミルクティー、北京ダック、餃子といった中国の食や、タクシーサービス、レンタル自転車といった中国の便利なサービスを堪能でき、異国の地での交流を通じて友情を深められた。文化の壁を越えて交流を深め、異国の地で友情が芽生えることはやはり尊いものである。
もう一つ印象的だったのが、参加者一人一人の変化である。北京セッションに至るまでに多くの人が悩み、もがく様子をみてきた。それに対して、自分の力不足を何度も痛感した。実際にセッションが始まると、一人一人の目つきが変わり、真剣に議論に向き合う様子が印象的だった。僕自身北京セッションに至るまで多くの点で至らないところがあったものの、参加者の様子は常に僕自身を奮起させてくれた。このように、一人一人が何かに真剣に向き合い、変化してゆく姿はやはり本当に素敵で、京論壇がすべての参加者にとってこのような場であり続けるようにしたいと強く思った。東京セッションがますます楽しみだ。

 

さて、せっかくなので、僕自身が北京で個人的に感じたことを何点か書きたいと思う。
北京という場所は僕にとって特別な場所である。小さいころに住んでいたから懐かしさや哀愁的な感情を覚える一方、僕は日本で暮らす時間が人生で多くを占めるため外国に行くときに感じる高揚感みたいなものも覚える。しかし、昨年と今年合わせて3度もいっているため、だんだん外国で感じる高揚感といったものが少なくなり、懐かしさといった感情が徐々に思い出されるようになってきた。
発達したデリバリーサービスや整備された地下鉄など、自分が住んでいたころの北京にはない便利さを味わいながら、かつての自分の内側にあった中国人らしさを思い出し、この国の人として生きることも悪くなさそうだ、なんて思った。しかし、第三者的な視点で中国の人たちの行動にツッコミを入れてしまうあたり、もうそれは不可能なのかもしれない。


今回の北京渡航で感じた細かいエピソードを取り上げながら、すこしでも中国という国が面白いと感じられるようにできたらと嬉しく思う。

合理的な中国人

飛行機を降りて、真っ先に目につくのがおしゃべりしながら仕事の合間を楽しんでいる空港の掃除のおばちゃんだ。こんな光景、日本の空港ではなかなか目にできないだろう。中国の人は適当なんだな、なんて普通の日本人は思うかもしれない。実際、僕でさえ思う。指紋採取での入国手続きや荷物検査をくぐり抜け、タクシーで宿泊ホテルに向かう。たどり着いた前泊のホテルは派手な外装で飾られている。しかし、部屋にたどり着くと、驚きの連続であった。確かに所々綺麗に飾られているが、壁がやぶれていたり、窓が完全に閉められなかったりしていた。ホテルで一番面白かったのが、ロビーで爆睡する警備の方だ。確かに夜遅くで眠いだろう。しかし、もはや職務放棄ともいえる行為を誰も止めず、誰も何も突っ込まない光景は、日本人から見たらとてもシュールなものだ。外に出てみると、ホテル周辺に警備員はいるものの、動画を見ながらおしゃべりをしていた。翌日市内を観光しながら、中国人の適当さを感じるようなシーンにいくつか出くわした。例えば、これは中国に慣れてしまえば全く気にならないが、売店やコンビニでの店員の態度が日本に比べると適当なのだ。日本のようにかしこまった言葉遣いや態度なんて決してとらない。一つの会計が終わるとすぐに、次に会計の対応に入るし(日本なら客が去ってからだろう)、言い方もぶっきらぼうだ。再現してみるとこんな感じだろうか。(中国語に敬語がないことももちろん関係していると思うが)
店員:「◯◯円よ」
僕「現金でも大丈夫ですか?」
店員「いいよ」
(会計終了すぐ)
店員「はい、次の人きて〜」

中国では(特に北京では)セキュリティが厳しく、地下鉄ですら空港と同じような荷物検査をさせられることが多い。しかし、地下鉄におけるセキュリティは形式的なものという側面が強く、実際スタッフもかなり適当で、金属探知機が鳴っても何もしないことが多い。
さて、なぜ中国の人はこんなに適当なんだろうか。これを説明するキーワードの一つとして、中国人の"合理性"があると私は考える。中国人は合理性、特に自分自身にとっての合理性、を重視する傾向にあると私は感じる。例えば、先ほどのホテルのフロアで寝る警備員の例を考えてみよう。彼にとっては、寝ても寝なくても、給料は変わらない。そして、周囲の人にとっても、監視カメラがあり、しかも深夜のホテルはそんなに人が訪れない中で、トラブル等もあまり発生しないと考えられ、彼をわざわざ起こす必要性を感じられない。このように、彼が楽することが彼にとって最善であり、周りの人がそれを止める必要性もないため、警備員がホテルのフロアで寝るという事態が起きるのだ。同じように、動画を見るホテル周辺の警備員、言葉遣いが(日本に比べて)雑な店員、形だけのセキュリティチェックをこなす地下鉄の職員、彼らは彼らにとって一番楽でかつ周りに許される方法をとっている。
実際、中国人は合理的だという声を僕よりも上の社会人の方から聞くことも多い。それが、ビジネス現場における中国企業の意思決定の早さなどにも出ているだろう。以前、インドネシアでの高速鉄道をめぐり、日本の新幹線が中国の高鉄に敗れたことが話題になった。アフリカや東南アジアなどあらゆる地域に向けて積極的に進出する中国企業の勢いに、私たちが見習うべき部分があるかもしれない。


もう一つ、中国で印象に残っているのが、電子決済、デリバリーサービスの発達やタクシーアプリの発達、レンタル自転車サービスの発達など、日本ではあまり広まっていない便利なサービスの数々だ。そして、これらは僕が暮らしていたころの中国にはなかったものたちばかりだ。なぜこんなにサービスが広まるのが早いのか。理由はいたってシンプル、便利だから。便利なものをどんどん取り入れて使いこなす中国人はやはり合理的である。そして、日本では、規制などももちろん背景にあるが、なかなか便利なサービスがすぐに広まらないことも多い。キャッシュレス化の必要性は長く叫ばれているものの、いまいち広まっていない。もちろんいろんな意見があると思うが、どんどん便利になりゆく中国社会に対して、どこか日本社会にもどかしさを感じる人はきっと僕だけではない気がする。

 

社会に充満するパターナリズムとその限界

中国ではあらゆるところに広告が貼られている。地下鉄に乗っているときに外に目を向けるとトンネルの壁に広告が流れていたりする。エスカレーターに乗ると、取っ手や隣のレーンとの間の空間に広告が貼られている。ホテルのエレベーターに乗ると、天井やドアの内側に広告が貼られている。日本人には考えられないようなところに、広告がたくさん張り巡らされている。その内容は様々だが、教育系の広告の多さが目につく。日本にもよくあるような大学受験の塾はもちろん、MBAや海外留学の対策塾、TOFELなどの民間の英語検定の対策塾、さらには小学生中学生向けの塾の広告もある。もちろん日本にも教育系の広告はたくさんあるが、その量とバラエティの豊富さは日本の比ではない。中国人家庭は教育に厳しいというのは、多くの日本人の知るところでもあり、実際に作者自身小さい頃はかなり勉強面で厳しく叱られた経験が何度もある。教育にみられるように、中国社会はものすごく競争社会である。いい大学にいくために死ぬほど勉強して(しかも二次試験や私大がある日本とは違い、中国はすべての大学が”高考"とよばれるセンター試験みたいなもので一発で決まる)、そしていい大学に行けても学部だけではいい企業に就職できず、ほとんどの人は留学もしくは院にいき、一生懸命勉強してもそれでもなお就活で厳しい競争にさらされる。これだけの競争社会であるため、親は子どもに対し小さい頃から厳しく教育する。幼稚園の頃から習い事をたくさんさせ、小学校・中学校にかけて厳しく教育し、高校に入るともちろん大学受験のための勉強をたくさんさせる。このような厳しい環境を嘆く中国の学生の声をなんども聞いてきた。「高校の頃は親と先生双方から恋愛を禁止された」「なんども病みそうになった」「日本からの留学に帰ると、中国の大学はなんてプレッシャーとストレスに満ちてるだろうかと思った」。作者自身は小学校三年生までしか中国にいなかったが、何度も執務室で居残りをさせられた記憶がある。さて、このような厳しい環境はどのような副作用をもたらすのだろうか。中国では近年、”仏系”とよばれる若者が出現し、日本でいう「さとり世代」に近いものである。北京大学といった名門大学でも、ネトゲ廃人が増えていると聞く。かつて日本で80年代、90年代にヤンキーの登場や援交ブームなどに代表されるような若者の不良化が起きたこと、さとり世代、草食系男子など若者の無気力化が近年起きていることを想起させる。過度なプレッシャーの副作用は中国社会でも出始めている。

今の中国社会には至る所にパターナリズムが充満していると私は感じる。パタナーリズムとは、父権主義、温情主義、家父長制などとも言い換えられ、wikipediaによると「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志を問わずに介入・干渉・支援することをいう」そうだ。つまり、上の立場にあるものが下の立場に対し、下の立場のためにと思ってもしくはそのような名目のもとで、いろいろお節介をすることをさす。パターナリズムは日本や韓国といった東アジア諸国でも根強い。ただ、日本は高度経済成長が終わって社会が安定したこともあり、以前ほどこのような傾向は強くなくなった。他の国に比べても、中国はパターナルな傾向が強い。これまでみてきたように、上の世代の人たちが下の世代の子どもたちに対して行っていた干渉は度を超えたものであった。しかし、若者は競争に疲れ果て無気力化し、パターナリズムの副作用がもうすでに社会のあらゆるところで見られている。この副作用にどのように向き合うか、さらなるパターナリズムで抑えるのか、それとも別の方法を模索するのか。各所で張り巡らされる教育の広告を見ながら、この巨大な社会の行く末に思索をめぐらせた。

結び:永遠に終わらない中国理解の旅

ここまで書いて、「中国」「中国人」といった大きな主語を多用していることに気づいた。中国について書く記事だから、当たり前といえば当たり前だが、ヘイトスピーチなどにみられるよう、大きな主語で何かを語ることは時として偏った見解を導く。特に、中国社会に関して語るとき、それがもつ巨大さとダイナミックさゆえに、よりいっそう慎重に語る必要があるだろう。
実際、自分が書いた内容を振り返ると捨象してしまった側面がいくつもあることに気がつく。中国にも生真面目で礼儀正しい人はたくさんいるし、受験や就活といった競争を勝ち抜いて人生を謳歌している人はたくさんいるだろう。よく友人に「中国の人は◯◯に関してどう思っているの?」と聞かれるが、答えに窮することが多い。あまりにも多様な意見が存在するからだ。僕がここで書いていることはあくまで僕が感じた中国社会の傾向であり、それが必ずしも正しいとは限らない。結局中国を理解するには、自分がみた現実をしっかり振り返りつつも、自分が見なかった部分にも想像をめぐらせ、様々な声や意見をもとに、より確実そうな理解を常にアップデートし続けるしかない。

帰国するとき、眠い目をこすりながら、ふと次いつ中国にくるだろうかと考えた。そして、次来るときどのような中国が見られるのだろうか。若干の不安とそれをはるかに上回る楽しみを胸に抱きながら、故郷・日本に帰る飛行機に身を乗せた。