京論壇2019ブログ

京論壇2019公式ブログです。活動報告やイベント告知などをおこないます。HP: https://www.jingforum.org/

【参加者コラム:井上史菜】〜劣等感はいつ生まれるか〜

兼好法師の時代は、
〇〇人に対して心理実験を行なった結果〇〇%において、という先行研究などもなく、
徒然なるままに人間ってこんなもんじゃないかな、
という自分の思考を書き連ねることが出来たわけで、
そういう言葉の方が人々にとってみたら、
そうだなあ、ああ、そうだそれだ、
という心の奥でほっとするような共感を生んでいたのだと思う。

 

私も新書を読むのが苦手なので今から書くことは、
科学的に見たら全部でたらめで、
適当なことばっかりなのですが、
人の心にとって“適当“な温度ですんっと響くような話ができたらな、
と思います。

 

人間関係における劣等感、人間関係を壊す劣等感
例えば、稚拙に聞こえる死活問題としての「恋愛関係における劣等感」というものがある。
例えば、付き合っている人が他の女子に笑いかけているとする。その時に一時的な嫉妬心というかちくっとするものを感じてしまう性なのだが、その相手がクラスで一番可愛い子だったりするとその一時的なちくっが、もやっとなって何日間も残ったりする。そして、もやっが頭の中で具体的な言葉を帯びてくると、「本当はみんなあのマドンナと付き合えたらって夢見るけど、現実的な選択肢としての自分がいるんだろうな」と、自分の顔がどうしても嫌になってくる。
その時、人間関係における劣等感が生まれている。私と付き合っている人との関係の外側にいるはずの人と自分とを比べて、自分のことが肯定できなくなってしまう。

 

勿論、付き合っている人本人に感じる劣等感もある。
同じ目標に向かって歩いていたのに、私だけ行き止まりになって置いて行かれてしまったとき、もしくは、自分が歩こうと気概を持って踏み出した道に実はその人の足跡が点々と先の方まで伸びていることに気がついたときに、ため息をつきたくなる。
ため息だけで終わらないこともある。その人と一緒にいることが嫌になってくる。
心では分かっていても、その人だけが歩んだ道、もしくはその人がもう歩んだ道の話を聞いている時に、だめだだめだと思っているのに、言葉尻の一つが気になってやはり自分は見下されているのではないかと思って、話が楽しくなくなってしまう。
その心のわだかまりを他の理由で誤魔化して別れてしまったこともある。

 

だから、私は劣等感なんか感じなきゃいいのにって思っている。
人と自分を比べて、自分を肯定できなくなってしまうかその人を意地悪な人のように感じてしまうかのどちらかなのだから、こんな感情持ちたくない。
なんで悔しい、自分も頑張ろうって思えないんだろう。顔は可愛くなれなくても、自分は他のいいところがあるからそこを伸ばそうって思えないんだろう。

 

劣等感はいつ生まれるか
私の持論として、赤ちゃんは劣等感を持っていない、と思っている。
子供好きで、色んな子を見てきたのだが、引っ込み思案な子はいるけども目の高さを合わせておしゃべりする時にはすっかり生き生きとしている。元気な子に押されて自分をうまく表現できない様子が劣等感を感じているかのように見えても、おしゃべりな子への羨望の眼差しとか、むしろ逆にうるさいなあと思っているかもしれないけど、それは劣等感ではないと思う。劣等感は、吐き出せなくて自分の中に詰まっていって一人ぼっちになった時の方がひしひしと感じられてしまうものだから、その子が元気な子から離れた時にぱあっと笑顔になる限り、それは劣等感の一歩手前の感情なのだと思う。
劣等感の一歩手前の感情が、いとも簡単に劣等感と結びつき始めるようになる年頃というものがある。

 

私は、小学校高学年になってもその段階を迎えていなかった。
あの頃はなぜか自分に自信満々で、例えば、全ての男子は実は自分のことを好きで今すぐにでも告りたいのに勇気がないのに違いないと少女漫画のような展開を夢見ていた。(少女漫画を読んだことはなかったが笑)
単純に劣等感というものを知らなかった。
色んなことがあったけど、例えば、自分の好きな人の好きな人も、二番目に好きな人の好きな人も共通して自分の親友だったし、所属するコーラス部では「あの子声量はあるけど声が汚いからね」という先生の話し声が聞こえたけど、どんな時も「悔しいな、でも自分のいいところを伸ばそう」って思ってポジティブ100%で乗り切っていたし、無理したこともなかった。
私は、劣等感というものを感じるのは他人の目を意識し始めた時と重なるんだと思う。
二人を密かに好きだったから、親友から「二人ともに振られた感じになって可哀想」と思われることもないし、先生は私の声が汚いからといって「ダサい」と思うのではなく、声量の子として存分に使おうとしてくれるんだろうと思っていたし、だからソロパートが一人だけ割り振られなくても、ちょっと悲しかったけど、でもそれはそれで終わりだった。

 

でも、付き合っている人の方がはるかに優秀だと、周りから凸凹カップルって思われているんじゃないか、と気が気でならなくなる。その人のことは尊敬している。その人が先に歩んでいた道もすごいなと思っている。なのに、近くにいることが恥ずかしくなってきて、近くにいる釣り合わない自分とか、他の子に劣っているのに付き合ってもらっている立場という自分とかが、嫌になってくる。
よくよく考えたら人の足跡を踏んで歩くことなんてあったりまえのことだ。似たようなことをしている先輩とか、もっとすごいことを成し遂げている同級生の話とか、いっぱい知っている。エジソンの方がすごいけど、エジソンに劣等感なんて感じない。でも、近くにいる人が自分より優れている、そのことだけでなんで心が苦しくなるんだろう。
ある時から私たちは、世の中には一定の評価基準というものが存在することを知り始めるのだ。みんなが持っている価値を測る物差しっていうものが大体これと決まっていて、他の基準はなんだかその評価から漏れる人を慰めるようなものにしか聞こえなくなってくる。「でも、声が大きいから」とか「でも、スポーツはできるから」とか取ってつけたような慰めに聞こえてくる日がくる。その時に、近くにいる人が慰めじゃない本当の賞賛を受けていたら、自分はその人の脇役のように見えてきて、嫌で嫌でしょうがなくなる。
それは他の人の目が、主役と脇役を見極める目が、あることを感じて、自分が脇役なんかにされていることが自分にも申し訳なくて、たまらなくなるんだと思う。

 

劣等感は本当に必要か
二人きりでいる時もこの言葉は見下しているんじゃないかと感じるのなら、他人の目なんて関係なく劣等感は起きていると言うかもしれない。
でも、二人でいるときも私たちは他人の目の評価軸を気にしているとは言えないだろうか。
だって、付き合っている人や兄弟や、親友や、本当に近くにいて、お互いに応援している人のことが羨ましくなっても、自分が負けてて悔しくても、その時に負の方向の感情を生み出す必要なんて何もないはずだ。その人のそんな側面を尊敬して、自分も負けないように同じことを頑張るなり、あえてその道を避けて他のことを頑張るなり、なんだってその人と一緒にいる道はある。エジソンがすごくてもエジソンの伝記を捨てたりしないのと同じように考えられたらいい。
他人から、「セット」のように捉えられていると思ってしまった時、または自分が他人の立場で他人の目を借りて「セット」として見ている時に劣等感は強く強くなる。
近しい人と一対一でおしゃべりする時、相手の目に映る君は、今この瞬間、相手にとってたった一人目の前にいる相手だから、脇役なんかであるはずもないのに。
しかも、その関係にはもっともっと大きな評価基準がある。それはその人のことをどれほど大切にしたいかという心のこもった基準で、そんなものの前では勉強の出来とか、俗に言う優秀さとかどうでもいい、そう思えるはずだ。
でも私たちはうっかりするとその大事な評価基準が、またこれも慰めの言葉で、一般的な見方から言う所の大事な物差しの、高いところにいる方から下さった言葉のように捉えてしまう。それで嫌味や自慢やマウントに聞こえて、もう嫌だって離れちゃうのかもしれない。
でも、目と目を見て、ちゃんと一対一で考えられたら、その大切な関係にはそんな基準はちっぽけでこれっぽっちも大切でないこと、また、他の基準で輝くあなたへの近しい人からの言葉は慰めでもなんでもなく、あなたのすごいところへの心からの、純粋な賞賛であることがだんだん分かってくるはずだ。
その時にひねくれた疑いなんてかけなくていい。他人の持つ眼鏡をその二人に持ってこなくていい。
劣等感なんて感じなくていい。感じてしまっても忘れちゃえばいい。忘れられなかったら、目を見て。その人は本当に君のことを馬鹿にしていないし、すごいと思っているし、全部丸ごと大好きで大切にしたくて応援したくて、だからずっと一緒にいてもいいし、自分のすごいとこを相手に自慢してもいい。他の人はあなたのことをあんま知らなくて“いつもの基準“で適当な賞賛ばかりするかもしれないけど、あなたのことをよくよく知ってるからこそ、あなたの全てに乾杯したいって本当に思っているから、自慢だって待っている。

 

さようなら、劣等感

劣等感は負の方向に自分を突き落として、他人を信じられなくなってその人と一緒にいるダサい自分を見られたくなくて逃げたくなるようなものだ。
でも、そんなみんなの目を気にする必要なんて全然ないと思っている。
他人なんてしょーもない。忘れちゃえ。それよりも応援してくれている人のことを見て。

 

劣等感を感じそうになったら、一歩踏みとどまって、自分のすぐ近くの素敵な関係に気づくことができて、最高の相手、友達、家族に自分のいいところが自慢できるようになって、その関係を大切にし返せる人が少しでも増えたらいいな、と思う。