京論壇2019ブログ

京論壇2019公式ブログです。活動報告やイベント告知などをおこないます。HP: https://www.jingforum.org/

【東京セッション報告記②】競争と人生分科会に参加して 〜福山和甫〜

 

かみ合わない議論。発散し続ける議論。収束していくかと思えば、小さな穴からまた発散していく。なぜそんな些細な点を気にするのだろう。なぜこんなにも重要なことが気にならないんだろう。お互いに理解できないまま平行線をたどる。

 

カタコトの英語。ぐちゃぐちゃな文法。違和感を覚えても英語じゃ伝わらない。いや、日本語で流暢に話したところで伝わらないだろう。自分の思いを言葉にした途端に陳腐なものに感じてしまう。相手の言葉もひどく単純なものに聞こえてしまう。本当はもっと深い思いがあるのだろう。でも僕には言葉しか知ることはできない。

 

 

僕は議論があまり好きではない。というより、人と向き合うことが苦手である。それは、究極的には相手を理解できない孤独と気味の悪さのようなものを感じてしまうからだと思う。アルベール・カミュという哲学者のエッセイに次のような文章がある。

 

一人の男がガラスの仕切板の向こうで電話をかけている。その声は聞こえず、意味のない身振りだけが見える。そうするとなぜこの男は生きているのかという疑問が湧いてくる。

 

僕らは相手が何を考え感じているのかを、相手の言葉や行動を通して察することしかできない。ガラスの向こう側にあるものを聞くことはできない。僕はこのことを意識した途端に相手のことが分からなくなる。分かったつもりでいられなくなる。この人は何のために生きているのだろう。どんな人生を生きてきて、今どんな世界で生きているのだろう。それが僕と違うことだけが分かる。

 

議論では特にこう感じてしまう。相手は必死に意見を伝えてきてくれる。でも完全には理解できない。理解できたと思っていても実は違ったなんてこともある。そして何よりも、真っ向から意見が対立したときに本当に譲り合えないときがある。相手の立場を考えてもなお理解できないときがある。議論ではそこで逃げることが許されないから、相手との違いを直視しなければならなくなる。相手と違う孤独感と、理解し合えない他者への気味の悪さから逃げられない。

 

でも、たまに、僕は相手の中に美しさを見ることがある。繰り返される言葉や行動を通して、その人の世界の一端を感じることがある。その人が何を大事にしているのか、そこにどれだけの想いをかけているのか、伝わってくる気がする。それが、その人の価値観なのかもしれない。そこには発せられる言葉の陳腐さとは比べ物にならない、重さがある。僕はそこにその人の美しさを感じてしまう。

 

 

[]

僕らの分科会は“競争と人生”だ。価値観をぶつけあうための分科会だった。出てきた議論はかけた時間の割には単純だったかもしれない。ただ、長い時間をかけた議論だったからこそ、一人一人の意見、言葉選び、仕草、色々なものから、その人の苦悩や美意識が見えるときがあった。その人の生きてきた競争が、別に競争だけじゃなくその人の生きてきた人生が、その人の価値観をどのように形成したのか伝わってきた気がする時があった。そしてその伝わってきた価値観に僕はその人の美しさを見ることができた。

 

前期教養学部(経済学部)2年

福山 和甫

 

 

f:id:jingforum2019:20191025210857j:plain