京論壇2019ブログ

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【参加者コラム:大江】〜「多様性」なんていらない〜

どこに行っても「多様性」が叫ばれる社会になりつつあるこんにちの日本において僕が抱いた疑問を皆様に投げかけさせていただこう。

 

はじめに、僕の言う「多様性」とは「様々なバックグラウンドを持つ人々やそれに伴う考え方、価値観の違いなどを社会として積極的に受け入れていこう」という建前の昨今の流行りの考えを表す言葉である。

 

「多様性!多様性!」どこに行っても「多様性」の重要さを耳にし、「多様性」を取り入れることを是とする前提で議論が進む画一的な社会、はっきり言って僕は嫌いだ。

 

そもそも「多様性」が叫ばれだしたこと自体がイノヴェーションを起こすためや企業などの生産性の向上のためなどという、なんとも多様性の本義からは遠くかけ離れた経済重視画一の唯物論的な価値観に基づいた社会の要請によるものではなかろうか。そんなものは多様性ではない。

 

多様性の受容とは本来、多様な価値観を相互に認め合おうとする営為や状態のことではなかろうか。経済やビジネスの分野に限定してアイデアを拝借してきてイノヴェーションを企図する一方でその他の宗教や政治、生活の面においては既成の価値観を固持する姿勢を崩さない。それは多様性の受容ではなく単なる情報収集だ。

 

それでは真の多様性とはどのような社会の状態、態度を形容する言葉なのだろうか、どの程度の価値観までが許容されどのようなものは多様性の中から排除されるべきなのか、そして多様性が認められる社会は様々な主体にとって「善い」社会なのか。あいにく僕はこの問いにまだ答えを見つけられていない。

 

しかし歴史に知恵を借りると、偏狭な価値観に固執すれば外部の他者との間に軋轢を生みそれが過去多くの悲劇を引き起こしてきたことは言うまでもなく、その点においては少なくともある程度は多様性に対して信頼を置くべきだと言える。またなにより悲劇を引き起こした当事者は自分が偏狭な価値観に固執しているなどとは微塵も考えていないことにも注意が必要であるように思う。こうやって、多様性について講釈を垂れている私にも、耳を澄ましてみれば適当な理由をつけて認めること、もっというと理解することや認知することすら放棄してしまった価値観たちの恨み言が一斉に聞こえてくる。

 

ここで「あるべき多様性の形を理解し体得するためには、自分の考える多様性が完全でないことを常に自覚したうえで観想をし続けるのみだ」などとありがちな締めくくりをしてしまっては、大風呂敷を広げておいてなんだ!とがっかりされてしまうかもしれない。しかしこのコラムに課された1000字のノルマは超えたし浅学を自ら露呈するのはそろそろ終わりにしたい。

 

けっきょくのところ“思いやり”。これが圧倒的な事実ではなかろうか。なぜなら、多様性として認めるのかもしくは棄却するかの審級を公平に下せるかどうかという問題のはるか以前に私たちの課題はあるからだ。ちょっとかっこつけた言葉を使ってみたが、要するにマイノリティなど意見の違う相手の発する言葉にわざわざ耳を傾けない現実が存在することが問題であるということだ。公平な判断以前に話を聞くところでつまずいているのである。私の少ない知識と知恵の中ではこれを解決するのは “思いやり”だけだと思う。

 

他者への思いやりのあるかっこいい大人になりたい。

 

文科一類1年 大江創平